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yuuの一人芝居

yuuの一人芝居

常夜石灯

常夜石灯

 常夜灯は汐入川にかかる中橋の東にあった。汐入川はちょうど中橋で南に曲がって流れているので夜間に行き来する船の目印にもなっていた。川面に明かりが落ちて風があるのか揺れていた。
「すまなかったな」
 嘉平は後ろを付いてくるおたねに言った。おたねの下駄の音が止まった。
「どうした」嘉平は振り向いた。
「波は風が起こすのね」おたねは小さく言葉を落とした。
「何が言いてえんでい」
「ああなって本当に後悔はしないの」
 おたねはそう言って嘉平を見つめた。
「そんなことか・・・後悔はしねえ・・・良かったと思っているぜ」
 川面で魚のはねる音がした。

 あのとき命を助けられ「付いてくるか」という言葉に「はい」と頷いたおたねだったのだ。
 あのときおたねはこの人について行こうと決めた。何があっても黙って離れずに同じ道を進もうと。何かの縁、きっとこうなる定めだったのだと言い聞かせていたのだ。
 倉子城に来て二十年・・・いろいろなことがあったがこの人の後ろ姿を見つめて生きてきたのだ。間違いではなかったと今思えば感じる。「かかあだよ」と人には紹介するけれど、そんな仲ではなく兄弟のように暮らしていた。この人は男ではないのかもしれない・・・外に女がいるのかもしれないと心を痛め苦しんだことはたくさんあったけれど、あにさんと思えばいいではないかと慰めたことが幾度もあった。十年前には夜具の中で身悶えたものであった。頭ではわかっていても体が疼いた。一度だけ客に心を移しそうになったことがあった。だけどそれは不貞だとあきらめた。女の性に振り回されてはいけない、一度この人と決めた以上何があってもついて行く、その妨げになるものは切り捨てると言う強い信念があった。
 時に我が身の不幸を嘆くこともあった。これもさだめと仕事に精を出すことで乗り越えていた。

「悪かったな・・・今までほったらかして」
 嘉平は少し照れながら言った。
「今まで待った甲斐がありました」おたねは小さく言った。
 
 幸せとか不幸とかを考えているときは本当の幸せではない。何も考えずに生きていることが・・・それこそが本当の幸せだと言うことがおたねにはわかった。
「何も考えずに生きていることが本当の幸せなのだとわかるときがくるよ。ああだこうだと言っているときは本当の幸せではないのさ。・・・うちを不幸だというものがおるがこうして生きている、待って生きておる、その幸せは人にはわかるものじゃないのさ」
 いつかお鹿さんが言った言葉を思い出していた。

「おまいさんのややがほしい」とおたねは嘉平の背に優しい声で言った。
「何か言ったかい」
「おとっちゃんに、おっかさんに今の幸せが長く続くようにお願いしたの」
 おたねは咄嗟に下を向いてそう言った。
「続くさ・・・ガキをたくさん産んでくれ・・・」
 嘉平とおたねは常夜石塔からこぼれる明かりをいつまでも眺めていた。
「徳川の代がおわりゃあ・・・あっしの任務も終わる・・・すまなかった・・・そのために踏ん切りが付かなくて・・・二十年もまたしてしまった・・・その前に夫婦になったら俺の身に何かが起こったときお前にもその累が及ぶと案じて・・・お前を二度と刃の中に起きたくなかった・・・あのときそう誓ったのだ」
 嘉平はそう言っておたねの肩に手を置いた。
「おまいさん」おたねは肩の嘉平の手に手を重ねた。

 倉子城村にも維新の風は無情に吹き付けた。いろいろな事件が起こった。官軍が御旗幟を立ててくらしき村を通り過ぎた。長々とした行軍であった。嘉平はそれをいつまでもいつまでも見つめていた。それはこの国の行く末を見つめているようであった。
明治の御代になっていた。
 その後の嘉平とおたねのことはわからないが・・・。

 嘉平とおたねの墓は鶴形山の墓地にあるが、毎年、春の彼岸と盆と秋の彼岸にはろうそくと線香と花が供えられている。仏を思う血筋のものがいるのであろう。その人の名前はわからないが・・・。



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